更新履歴欄

洞窟物語
世界樹の迷宮
セブンスドラゴン
その他二次創作
【更新履歴】
17/2/28 音楽ノート|2015年~今年にかけて録音していたオリジナル曲や、20年前、子供の頃に作った曲など……たぶん30曲くらい追加。

2016年8月30日火曜日

『ドグラ・マグラ』を初めて読んだよ

『ドグラ・マグラ』を初めて読んだのですよ。青空文庫版の電子書籍があったので。
ついでに映画のほうも見たので、添付の画像はそこから。


まずこの小説について、読んだことがない人がネットなりで集められる情報は以下で、
・表紙イラストが、陰部を見せつけている病的なご婦人
・「読んだら精神に異常を来す」というキャッチコピー
・ヤフー知恵袋とかアンサイクロペディアとかの記事が人気

というものなんだけれど、
私にとって前2つはひとまず興味がなくて、それより3つめが気になっていたのですよ。

それは、『ドグラ・マグラ』を紹介しようとすると、きちがいのフリをしなくてはならない……というルールについてで、必ずそうでなきゃいけないかのように、
「私は何度か読みましたが特に問題はありません。
 なので精神に異常を来すことはありません。
 ただの小説ですよ、証拠に私は正常です。
 なので精神に異常を来すことはありません。
 だいたいそれが本当なら精神医学が黙っちゃいません、
 すぐにでも読者を入院させサンプルを採るでしょう。
 しかし私にそんな経験はありません。
 なので精神に異常を来すことはありません……」

などというテンプレを書き連ねている様子が検索でひっかかることについて。

いかな作風がそうさせた? と思ったわけだ。

一方レビューサイトやウィキペディアを見ると、読むたびに感想が変わる、ストーリーが変わる、登場人物やその解釈が変わるから、どのように解釈したり要点をまとめてもそれは多義的解釈のひとつに過ぎない、などと書かれている。
なんだったら、一読しただけで百を知ったように考察するのは浅はかだというような雰囲気さえ出し、寧ろそうした多面的なトコロを「知った顔」をするのが唯一認められたふるまいであるような様子がある。

どちらにも共通しているのは、この作品に対しての「解ってはならぬのだ」という態度だ。
いわば「自分の一面の常識だけで測って知った気にならず、あえて幻惑されるのが通というものなのだ」といいたげな気がしていたのである。


今回そんな『ドグラ・マグラ』を読んだうえで、別にそうしたところにケチをつけるつもりはなくて、何も「じゃあ一発"解答"を示してみよう」だとか、「斬新な考察をしてやろう」という気はまったくない。
あくまで、「なぜそうなったのか」が気になっただけである。

それに、通して読むと「多面的なトコロを知った顔をしてやる」のは、確かにこの作品に対する礼節であるように思われた。

ただ、時は2016年である

あ、いや。
そう、時は2016年なのである。

まず、『ドグラ・マグラ』は、
・「私」が記憶をなくしている状態で
・それはそれはえらい精神医学の権威と法医学の権威が、それぞれに「先入観を植え付けるような怒涛の状況説明」を浴びせてきて
・しかもどうやら「私」は「1000年前の遺伝子が呼び起された」という動機によって殺人をしでかしたかもしれない
という話で、つまりは誰あろう語り部について、見るもの聞くもの考えること、すべてが100%信頼できないという状況下に常にある。

でも、現代においてはそういった作品に、割とそこそこの人が慣れてしまっていると思われる。
ミステリでもライトノベルでも萌えアニメでも、そういうことは概ね手法のひとつとして認知されている。
「あ、すべては精神上での誤認識でしたオチかあ」くらいに、筋立ての一種として経験値がある。

して、上記のうえで「私」は「時間軸のきちんとした把握」すら危うい。
・さっきまで目の前にいた人との会話は、過去の記憶だったのかもしれぬ
・いま初めて正気に戻ったような気もしたが、2回目なのかもしれぬ
・今見えている自分のそっくりさんは、自分の記憶を客観視した姿なのかもしれぬ

でもそれにしたって、やっぱり、決して世界唯一の設定でないことをもう知っている。

未来と過去が一室に同居するくらいのことはどこかで見ている。
散歩道で自分自身におーいと声を掛けられる怪談を知っている。
美少女が気持ちだけで延々同じ日を繰り返せることにも、或いは特定の人だと思っていた人物が、外科手術を施して深い深い暗示をかけられた別人である可能性にも、最早現代となっては寛容なハズである。

だから、今『ドグラ・マグラ』を読むと、シンプルにすとんっと「そういう箱」に入れることは可能だし、
またそういう箱の中の作品には「読者に最終的な解釈をゆだねた話」も多量にあるため、明快なオチを得なくても宙ぶらりんのまま消費することが問題なくできるわけである。


つまり一旦結論を置くと、
確かに不思議な話であったし、多義的解釈が可能であることも解った。
上記のような話であるから、ひとつの解釈を押し付けるのは確かに却ってつまらない。なんだったら、「読んでごらんよ、ほら」と言ってしまう気持ちも概ね解る。
それに、「私」を通した作品世界が時空の歪んだ幻想的な印象をもたらすことも重々よく解った。
ただ、「私は狂っていませんと同じ言葉を繰り返すきちがいのフリをする理由」は見つからなかった。

なので、そうしたネットでの取り扱い方を見て、読まずに咀嚼したい人にとりあえずいうならば、「これは"主観が読者をだますタイプの話"であって、ずっと気が狂ったままの、ましてや暴力的に読者の神経をかきまわす話ではないですよ」、ということになる。

そもそも、登場人物がみんな頭良すぎるんですよ。
精神医学博士に法医学博士に記憶喪失の医学部生だから。
主人公も安易に叫んだり気を狂わすことなく、極めて冷静、論理的であろうとするし、物事を考える際も「自分が気がくるっている可能性」をきちんと考慮し、しかも、博士たちの言葉に対しても自分なりの筋道を立てたうえで鵜呑みにすることなく警戒する。
勝手に狂って読者を置いてきぼりにする人が、ひどく出番の少ないモブ精神病患者の描写を除いて、いないのね。

ではなぜそうした「フリ」が生まれるのかというと、どうも、『ドグラ・マグラ』の文章のすごさと、作中の、精神の病気に対する解釈であるように思う。


まず既に書いた通り、少しばかり設定は変わっているが、いかにもミステリ的な要素がある。
殺人を犯したかもしれない記憶喪失の主人公と、その記憶を復活すべくさまざま入れ知恵する2人の博士。
そして、どうやら記憶が回復し、犯人について一定の結論を出すことによって、専門の異なる2人の博士の勝敗が決するらしい、というシチュエーション。

なので、劇中起きた事件についても、主人公は調書や、博士が当事者にしたインタビューの手記という形で触れることになる……のだけれど、これが、本当にそのまま掲載されているのね。
調書が、まんま。
インタビューの内容が、そのまんま。
抜粋でも、「そういった事が書いてある」でもなく、そのまま本編と地続きに記載されている。

更に「1000年前の遺伝子の記憶が殺人を引き起こした」というトリックについて、作中では「心理遺伝」と称しているのだけれど、それの論拠として作中人物が「脳髄論」について語ったインタビュー記事や、「胎児の夢」といった論文が、やっぱり、そのまんま載っている。

ついでに、博士が全国を行脚し行ったお囃子「キチガイ地獄外道祭文」の文句も、全部、載っている。
この、お囃子、「いかに精神病院が合法的地獄か」をリズミカルに唱え、合間にはちゃかぽこちゃかぽこと木魚の音が入るものなのだけれど、文庫だと30ページ続くらしいのね。電子書籍だと、もう……100ページはこれだったのかもしれない。

そう、途中で何読んでるのか解らなくなる。

こればっかりはさすがに文章量で圧倒というか、そうそうお目にかかれはしないレベルであり、ここで生の論文なりインタビューなりを読ませることで読者を当事者にしちゃう、という構図があるのやもしれない。

そしてもうひとつズルいのが、既に「モブ精神病患者」と書いたけれど、ホントにいかにもな気の狂った人はモブ扱いで、殆ど心理遺伝の説明の一部くらいにしか持ちられていない。
ポイントはそうしたキャラクターたちを差し置いて、「そもそも普段マトモぶっている人が何気なく思う妄想だって異常だ、そしてそれも心理遺伝の仲間だ、普通人もまた精神異常者なのだ」という言説のほうに重きを置いている。

だから、『ドグラ・マグラ』を読んでストーリーに一定の納得を得た読者は、普通人であるために「きちがいでなければならない」ことになる。

と、これが恐らくは「フリ」の理由の一端なんじゃないかとしたうえで、再度結論を置くと。
そして今度は、そうしたネットでの取り扱い方を見て、せっかくなら読んで咀嚼したい人にとりあえずいうならば、「読みやすいペースで、読むのがダルいところは飛ばしながら、一応はミステリを読むつもりで」読めば、現代においては問題なく読了できるし、「日本3大奇書の一角を制覇!」とも威張れるし、それ相応の読後感も得られるのではないかと思う。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿